つらぬくような軽いいたみ

毎日は書くことができない日記

機嫌と不機嫌

 時間があるので何となくOAZOに寄る。グランドフィナーレくらい読んでおかないといけないだろうと思って文藝春秋を買おうとしたら、群像12月号が目に止まる。グランドフィナーレの初出は群像だったのか。載っているなら別にどっちでもいいなと思って手に取ると、表紙に雨宮処凛という文字。
 雨宮処凛の言う事はいつもすっと胸に入ってくる。この人は心のどこかに穴が開いていて、その穴を塞ぐために心の他の部分を平気で犠牲にしているように思える。それは周囲に罪悪感をばらまく生き方なのだろう。罪悪感を与えられたら従うか反発するかしかない。募金にはするかしないかしかないように。言っていることが正しかろうが間違っていようが、議論の余地はない。
 ページをめくっていたら松浦寿輝が「人のセックスを笑うな」について語っていた。「ケッと言うしかないですね」「何やら胸クソの悪い風俗小説を読んだという感想ですねえ」。 書初めで「反骨精神」と書いたのなら紅白を見るべきではないのか、という意見に「当然ですよ。滑稽じゃないですか」。紅白を見ないことが反骨精神? 笑える冗談だ。
 「単に当今のいい気な若者の一種の類型に凭れかかっているだけのような気がしたのです」というのが全てで、松浦先生は単にこの小説が嫌いなのだと思う。なまじ頭がいいと問題意識のないものを許せないということだろうか。よくわからない。ちゃんと彼の授業を聞いていれば少しはわかったのだろうか。
 ひょっとして松浦先生は評論はエンターテインメントだと割り切っているのだろうかとも思う。言及したくなる気持ちを起こさせ、評論の再生産の礎になるのが良い評論だとしたら。議論できないものを排除し、議論できるものだけを議論し、その議論に対して更に議論し、議論だけを無限に増殖させていくことが目的だとしたら。文句のつけようもない。それこそ一種の類型だという一点を除いては。
 とりあえず文藝春秋ではなく群像を買うことにする。しかし自分の好きなものが理解されないと、こんなに感情が揺れるものなのか。知ってたけど。