つらぬくような軽いいたみ

毎日は書くことができない日記

モノローグ

 最初に動詞があった。そのうち名詞ができ、文字ができ、本ができた。気の遠くなる話だ。
 言葉の本来の機能を考えると、美しい表現とか行間を読ませるとかいうのはあまりにもアクロバティックな技術。切手で絵を描くとかオートバイの爆音でドラえもんのテーマとかとやっていることは変わらない。はっきり言って特殊な趣味だ。レシピとか法律書とか情報誌ならともかく、小説や詩に特別の価値があるとされているのは意味がわからない。なんで大人は本を読めというのか。
 本は自分から読もうとしない限り何も訴えてくれないから、自分で情報を得る能力が身につく。さまざまな考え方や感じ方が書かれているから、放り出さずに読み終えれば自分の考え方に幅が出来る。そんなことを齋藤孝が訴えていて、だから読書には価値があるのだと言う。僕もそう思う。齋藤孝は批判されることが多いけれど、彼のやる通りにすれば望ましい大人が育つだろう。健全すぎる? でも凡庸より健全の方がマシだろ?
 でもそんな理屈の裏づけなしに、ただ何となく読書が偉いというイメージがはびこっているのは気持ち悪い。例えば古典は歴史の風雪に耐えたものであり、それだけ育成に役立つには役立つのだろうから読むのは偉いことかもしれない。でも昔の難解な文学作品を読むなんて、淡々と考えれば倒錯にも程がある行為。倒錯趣味を手放しで賛美するのもくすぐったい話。