つらぬくような軽いいたみ

毎日は書くことができない日記

オペラ座の怪人

 痛む足をかばいながら歩けばもう一方の足も痛くなる。でも池袋まで出る。
 後輩と待ち合わせをして「オペラ座の怪人」を見に行った。そういえば「オペラ座の怪人」のミュージカル版を見たのはロンドンで、後輩の彼氏も一緒だった。僕の英語力では何もわからなかったはずなのにもの凄く感動して、そのままピカデリーのHMVまで歌いながら歩いてサウンドトラックを買った。結局そのCDにはヒビが入っていて聴けなかったのだけど。
 字幕がついているからわかりやすかったのか。映画自体が僕の好みだったのか。いろいろ原因はあるのだろうけれど、完全に急所に入った。
 最初は違和感。確かに映像はとてもきれい。廃墟のオペラ座がシャンデリアが上がるとともに元の姿を取り戻していくさまなんてミュージカルで表現できるわけない。溜息が出る。でも当初の懸念どおり、ミュージカルの台詞を映画でやるのは無理があるようだった。歌姫クリスチーヌの歌う台詞はかみ合わなさ過ぎて、トランス状態というよりは頭がどうかしているようにしか見えない。それにしても胸を強調する服ばかり着ている。舞台衣装が胸を強調するのはわかるしネグリジェが胸をはだけさせるのもわかるが、なんで墓地に一人で行くのにもそんなに胸がはだけているのか。雪も降っているのに。眼福を通り越して寒くないのか心配になる。というかそれ以上に頭の中身が心配だ。
 中盤からそれが変わった。話が噛みあい出した。構造が見えてきた。
 引きこもりで善悪の区別がつかずキレやすく平気で人を殺すフィギュアオタクにして超強力な容貌コンプレックスの持ち主ファントム。箱入りで育った筋金入りのファザコン女クリスティーヌ。そしてオペラ座の実務を仕切り、ファントムをかくまった張本人マダム・ジリー。というかマダム・ジリー、あんたファントムの犯罪は隠蔽するわファントムの養育費をオペラ座から脅し取る手助けはしてるわ、状況から判断するとファントムのフィギュアの材料を買いに行ったりもしていたとしか思えないわ、ファントムは天才だからといって何かと特別扱いするわ、実は全ての元凶なのでは。子離れできない親にも程がある。弾みでファントム助けちゃったから仕方ないのかもしれないとはいえ。
 そんなこんなでコンプレックスの余り女性に手を出せないが支配欲は半端じゃないため自然と父親役になっていたファントムとそれに完全にはまっているクリスティーヌ。クリスティーヌを育てたマダム・ジリーも、よく考えれば黒幕みたいなもんだからひどい話だ。紫の上も驚きの包囲網である。
 その閉じまくった世界をぶち壊すのが我らがラウル。こんな面倒くさいクリスティーヌのことを好きなこと自体酔狂な話だが、まあ美人だし基本的にはいい子だしそれはいい。しかしファントムに歌われる度にふらふら付いていくクリスティーヌを全く責めず、嫉妬もせず、単にファントム許すまじの精神だけで突き進めるのは尊敬に値する。
 大体自分がクリスティーヌに歌った愛の歌をなぜかファントムが知っていて歌っているだけでも目が点になるが、それにクリスティーヌが当然のように引き寄せられていくのだからたまったものではない。そんなシーンも一度や二度ではない。打倒ファントムを二人で誓ったはずなのにこの有様。その度目を点にするラウル。こんなに目が点になる主人公も珍しい。
 そんなラウルの真価が最大限に発揮されるのは最大のピンチのとき。まんまとファントムにつかまるラウル。ファントムはクリスティーヌにラウルを選べばラウルを殺す、ラウルの命が惜しければ自分の物になれと迫る。必死に対峙するファントムとクリスティーヌ。そこで叫ぶラウル。僕は彼女を愛している! 情けを示してくれ!
 聞き流すクリスティーヌと目を点にするファントム。愛とは空気が読めないことか。終始挑発的だったファントムも「私に情けを示してくれた者はいなかった」と思わずマジレス。こんな馬鹿が恋敵なのだからファントムも気の毒な話である。
 空気を読めない馬鹿が閉じた世界をぶち壊すという黄金律のような構造も素晴らしいが、映画版の素晴らしさはそれだけではない。クリスティーヌを誘拐しておきながら何もできなかったファントムが、ラウルの歌った「ALL I ASK OF YOU」を歌いながらならクリスティーヌにキスできたという演出には心が揺れた。雪の中での力のこもった決闘シーンもよかった。剣と剣がぶつかり合う音が本当に重く、今まで見た決闘シーンの中で一番好きかもしれない。MASQUERADEもよかった。とても華々しく夢のようで、確かに老いた時に輝く思い出。映画版ではシャンデリアがオークションにかけられた時代の、老いたラウルやマダム・ジリーがモノクロで描かれる演出が時折挟まれる。余計な演出だという声も多いが、これがあるからこそMASQUERADEが引き立つのではないか。そして「THE POINT OF NO RETURN」。絡み合うファントムとクリスティーヌはセクシーとかそういう次元ではない。マンガの「アラビアのロレンス」で、完全に切れたロレンスの背後にチューリップが一つ二つ浮かび、それが一斉に燃え上がるという演出を思い出した。炎としか言いようがない情熱。ファントムも必死だが、それ以上に腹を括ったクリスティーヌが美しすぎて怖い。その一方でラウルはしつこく目を点にしているわけだが。
 そして最後、クリスティーヌにキスされたファントムがラウルを解放し、一人で自棄になっているところで戻ってきたクリスティーヌに指輪を渡されるシーン。あらゆるオペラ座の怪人の中で、この映画版がもっとも残酷だと言われる理由。それはクリスティーヌがファントムを本気で愛していたことを徹底的に描いたこと。もしそうでなければ、ファントムはいつまでも誰にも愛されないと嘆いて絶望していればよかった(マダム・ジリーの立場はないが)。しかし自分が愛されていたことを知ったファントムは、もはや嘆くことも絶望することも許されない。かといってクリスティーヌの愛は自分のものにはならない。これほど残酷な結末を与えた作品は、僕は他にナボコフの「ロリータ」しか知らない。
 映画版はこれで終わりではなく、最後に冒頭のオークションで出て来たMASQUERADEが流れるオルゴールを、老いたラウルがクリスティーヌの墓前に供えるシーンで終わる。オルゴールを置いたラウルが見つけたのは、指輪のはまったバラの花。
 ラウルの真似をし、ラウルを先回りし続けたファントム。ラウルとファントムのカップリングもありなのではないかと思った。男心も複雑怪奇だ。