つらぬくような軽いいたみ

毎日は書くことができない日記

情緒不安定なんだ

 自己愛は一人でもさびしくないためにあると考えるのはどうだろう。あなたを取り込んでしまえば、あなたがいなくなってもさびしくない。自分の心を相対化して普遍的なものにしてしまえば、いくらでもバックアップを取れる。厳しい自己批判は心を相対化する作業。
 あなたはいなくなっても構わないという前提で、使い捨てにするつもりの心でアプローチすれば、そりゃまあお前真面目にやれよという話にはなる。自分を使い捨てにしたあげく私はその使い捨てのお前の一パーツかよと。もちろん本人は大真面目だろう。誰しもいつかはいなくなるのは厳粛な事実だし、大切じゃない相手など真面目に取り込もうとするわけありません。自分が真剣に向かい合いすぎて壊れることが容易に予想できるから、バックアップが必要なんです。
 自己愛が強いとか自己完結しているとか言われる世界がこの世にはたくさんあるが、それらがなんで気持ち悪いと言われるのかを長いこと考えていた。なんでちゃんと向かい合おうとしないんだ。なんできれいにまとめようとするんだ。なんで自意識過剰なくせに傍若無人なんだ。そんな言説にはずっと違和感を覚えていた。いや、真剣だと思いますけどね。泥臭いですけどね。向かい合いたくてしょうがないみたいですけど、と。
 一人でもさびしくない自分を作り上げるために他人が必要でさえなければうまくいくということですかね。失いたくない気持ちが強すぎるために相手を自分の一パーツにおとしめたり、かなしみが強すぎる自分を消し去って小ぎれいにまとめたりなんて作業があらかじめ終わっていればどんなに幸せでしょう。自分に甘くても、自分以外の全てを平気で犠牲にする性格でも、結局は変わる気のない自分をそのまま認めてほしいだけでも、自分一人しか世界にいないのなら欠点でもなんでもない。
 自分はさびしさやかなしさに耐えられるという自信があればいいのか、失っても次があるという自信があればいいのか。でもその自信の根拠って何歳まで遡ればいいのかね。